· 

私の「現代環境論」<1>

 

私の「現代環境論」<1>  原  強

 

1 20世紀文明と環境問題

 

環境問題のとらえ方は人さまざまです。私の場合、環境問題は「20世紀の負の遺産」という視座から論じてきました。20世紀は人類の歴史の中でも特異な時代だったといえます。

 

地球の歴史と人類のあゆみを振り返ると、地球の歴史は46億年、生命の歴史は40億年、人類の歴史は400万ないし500万年といわれてきました。そして、現在の人類の誕生は10数万年前のこととされています。アフリカの南東部を出発点に、中近東地域を経由し、時間をかけて地球上全体にひろがっていったと考えられています。

 

この間に、さまざまな文明の興亡がありましたが、なかでも狩猟採集経済から農耕文明への進展は文明史的な転換とされています。環境問題を論ずる人の中には農耕の始まりが環境破壊の始まりだと指摘する人もあります。

 

農耕を開始したことで食料を確保し、定住することができたことはとても重要なことでした。人口は増加し、生活度も向上し、各地でさまざまな文明を築いていったのです。しかし、人口の増加に見合う食糧・資源の確保が困難になると、周辺の文明との衝突もさけられなかったのです。

 

人類の歴史のなかで「産業革命」はもうひとつの重要な転換点になりました。「産業革命」は蒸気機関の発明など「技術革命」という側面が強調されますが、化石燃料を大量に使用する文明を招いたという点で「エネルギー革命」という側面も見落とせないでしょう。また、農地から切り離された都市労働者が大量に生み出されたことにともなう「社会革命」という側面もありました。

 

このような「産業革命」を踏み台にしてむかえた20世紀文明の特徴は、

 

1 科学技術の発展

 

2 化石燃料の大量使用

 

3 大量生産・大量消費・大量廃棄

 

4 限界を越えた成長

 

5 人口爆発

 

6 グローバル化の進展

 

などの特徴をもっていました。そして、このような20世紀文明のもとで、人間の生産・消費・廃棄の活動は急速に規模が拡大し、豊かな暮らしが実現されるとともに、他方で、環境問題が顕在化する時代になったのです。

 

環境問題が人類の未来を左右しかねないものだということをいちはやく指摘した2つの文献を紹介します。ひとつは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962)です。

 

『沈黙の春』の第2章の始まりの一節を引用しておきます。

 

「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去ったときの流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、20世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」

 

お気づきかもしれませんが、私の環境問題のとらえ方はこのような認識に基礎づけられています。

 

もうひとつが、ローマクラブがまとめた『成長の限界』(1972)です。

 

「世界人口、工業化、汚染、食糧生産、および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば、来るべき100年以内に地球の成長は限界点に達するであろう。」

 

人間活動の成長に限界があるという指摘は、日本でいえば高度経済成長がまさにピークをむかえ、直後の「石油ショック」で劇的な幕切れをむかえることになった時点で行われたものであり、各方面から注目されたものでした。

 

『沈黙の春』からやがて60年、『成長の限界』からやがて50年という現時点で、環境問題の基本的な構造をつかむために、あらためてそれぞれの指摘の意味を考え直す必要があるのではないでしょうか。

 

2 公害から地球環境問題へ

 

日本では、環境問題の前に、公害問題がありました。

 

1950年代から60年代、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなど、公害問題が各地で発生しました。

 

高度経済成長の時代に、工場などから排出された有害物質のために、その周辺の住民の深刻な健康被害が発生したのです。多くの場合、企業の排気、排水などの対策が不十分であったためにおきた問題でした。被害を受けた住民が救済を求めて企業と交渉を重ね、さらには訴訟を通じて救済を求める事例も相継ぎました。

 

このようななかで、公害対策の整備が課題になり、公害対策基本法(1967)が制定され、さらに、1970年末からの「公害国会」において公害対策関連法がまとめて整備されました。「典型七公害」とされた大気汚染、水質汚濁、土壌汚染、騒音、悪臭、振動、地盤沈下に関わる規制、対策がようやくはじまったのです。

 

また、これらの問題にあたる環境庁が設置されることになりました。

 

これによって、あらたな大規模な公害は抑えられるようになったとはいえ、被害者救済には長い道のりが必要だったのです。水俣病の場合をとっても、2004年10月の最高裁判決以後も被害救済をもとめて争いが続いています。

 

「公害は終わっていない」という認識を持ち続けることが必要です。

 

1980年代後半から1990年代にかけて、地球環境問題が焦点になりました。地球温暖化、フロンガスによるオゾン層の破壊、酸性雨、海洋・湖沼汚染、熱帯林の減少、砂漠化の進行、野生生物の減少、有害廃棄物の越境移動、途上国の公害問題などをめぐって、あいつぎ国際会議が開催され、情報の共有、問題解決のための国際的な共同の取組みの検討がされるようになりました。

 

なかでも1992年6月にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット)はターニングポイントになったといえます。この会合には政府代表だけでなく、企業代表、NGOや市民団体の代表があつまり、地球環境問題について意見交換を重ね、「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」をはじめ、今日の地球環境問題に関する取組みの基本的な枠組みを作りあげたのです。

 

この議論のなかで共有されていったのがSustainable Development(持続可能な開発)概念です。これは1987年に環境と開発に関する世界委員会がまとめた報告書で示された概念です。この概念は「持続的な開発とは、将来の世代の欲求を充たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発をいう」と日本語訳されています。

 

この概念は、今日では2015年に国連が定めたSustainable Development Goals(持続可能な開発目標)として広く活用されています。

 

地球環境問題は、公害と比べて、発生源が特定できない、被害の広がりが地理的にも、時間的にも大きいという特質があります。なかには企業活動だけでなく、市民の消費生活行動のなかに原因がある問題もあり、対策としても特定の企業の活動を規制するだけでなく、市民の消費行動を変容しなければならないということもでてきます。

 

いずれにしても20世紀文明の負の遺産としての環境問題を解決しようとする場合、このような認識が必要になるのです。                          (つづく)