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ブックガイド『大学は何処へ』

ブックガイド 吉見俊哉『大学は何処へ』

「二〇二〇年、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが全世界を襲うなかで、今日の大学が直面している窮状があからさまになっていった。」「全国八〇〇近くの大学の約一九万人の大学教師は・・はじめは恐る恐る、しかし次第に昔から当たり前のように使いこなしていたかの如く、自宅のパソコンでオンラインのシステムにアクセスし、ネットの向こう側にいる自校の学生たちに授業を配信し始めたのである。」「しかしながら、大学は、・・教室を封鎖状態から解いていく方法が見つからなくなった。・・社会から批判を受けて「ハイブリッド授業」という名の対策を導入して、名目上対面の授業をしている体裁をとっている大学も多い。」

これは本書の序章の一節である。非常勤講師として大学教育に関わる私自身の体験からいってもその通りだという思いで、本書を書店で手にし、すぐに読み始めたのである。

ところが本書が問題にしているのは、コロナ対応で右往左往している大学の現状ではなく、その背景にある大学そのものが抱えてきた根本的な問題があらわになっているということである。

序章のタイトルは「大学の第二の死とは何か」である。その意味はどういうことなのだろうか。読み進んでわかってきたことは、中世の大学を第一世代の大学とするならば、一九世紀からの

「国民国家」型の大学が第二世代の大学になる。ドイツ、イギリス、アメリカなどの大学の事例に学びながら、西洋の先端知の「翻訳」機関として誕生した日本の大学もその流れに位置づくものである。著者は、これらの第二世代の大学が、今日、グローバル社会でいかに再生していくことができるかという問題のなかで、日本の大学の現在と未来を根本から問題にしているのである。

 日本の大学では、一九九〇年代以降、新自由主義的な規制緩和路線のもとで、大学設置基準の大綱化と教養教育の空洞化、大学院重点化と大学院の質の低下、国立大学法人化と大学間、分野間の格差拡大が進行している。このような中で、大学とはいったい何か、大学はどんな人材を育成していくのか、どんな未来へのビジョンをもつべきなのかが問われているのだが、残念ながら明確な回答を示すことができないまま、これから一八歳人口の減少時代に突入することになるのである。そしていま、「日本の大学が向かっているのは、戦後日本の大学システムの崩壊というだけでなく、一九世紀初頭に復活した第二世代の大学が、国民国家の後退のなかで緩やかな死をむかえていくプロセスである」というのである。

 なぜ、こんなことになってしまうのか。第一章「大学はもう疲れ果てている」、第二章「どれほどボタンの掛け違いを重ねてきたのか」を熟読する必要がある。また、理解をふかめるために著者の『大学とは何か』(岩波新書)に目を通すことも必要かもしれない。

 著者は、第三章「キャンパスは本当に必要なのか―オンライン化の先に」、第四章「九月入学は危機打開の切り札か―グローバル化の先へ」、第五章「日本の大学はなぜこれほど均質なのか―少子高齢化の先へ」、第六章「大学という主体は存在するのか―自由な時間という希少資源」と検討を重ねたうえで、終章「ポストコロナ時代の大学とは何か」で「グローバル化もオンライン化も、国や大学、学部といったタテの壁に穴を穿つ方向に作用する。その穴を通って学生や教員が移動を始め、交流し、接触と対話、知的創造の領域を拡大させていく。そこに生まれる第三世代の大学は、何よりも地球社会の大学でなければならず、もはやそれは国民国家の大学ではない。それらの大学が育成を目指すのは、新しい地球人であって、もはや特定のナショナリティに自己を同一化させるような人々ではないのである。」との回答を提示するのである。

 また、「あとがき」で「知的創造のための自由な時間こそ、すべての学生と教師が失ってはならない貴重な資源であり、今、多くの大学人が疲れ果てているのは、その資源が枯渇してきてしまっているからである。だから、大学再生のための戦略は、何よりもまず枯渇しかかっている共有資源を奪還するための戦略でなければならない」と強調していることにも注意したい。

 

(岩波新書 2021年4月)