1995年1月17日午前5時56分、「阪神淡路大震災」が発生しました。淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の巨大地震が阪神地域を直撃したのです。
その被害は、死者6434人(災害関連死921人ふくむ)、行方不明3人、負傷者4万3792人、潤沢被害63万9686棟、焼損7594棟にのぼったと記録されています(1月17日付け「京都新聞」記事から)。
ことしは「阪神淡路大震災」から30年ということで、さまざまな行事が行われ、メディアもそれを報じました。
私の記憶によれば、「阪神淡路大震災」の発生時はまだ布団の中にいました。強く突き上げられる力で目をさまし、まわりを見渡し、すぐにテレビをつけて情報を得ようとしたのですが、なかなか情報が得られませんでした。とりあえず、身辺の安全を確認し、出勤しました。
朝一番の仕事として予定していた資料配布をするために経済記者クラブに行きました。そこで、大地震が発生し、阪神地域に被害が集中しているとテレビが報じているのを見て、あわてて事務所にもどり、情報収集につとめましたが、電話が通じなくなり、現地との連絡ができず、事態の確認が出来ないままだったようです。
夜、自宅で、火災が各地で発生している被災地のようすなどをテレビが報じているのをみながら、事態の重大さを認識することになりました。
このようなことでは、初期対応としてはよくなかったと言わざるをえないのですが、それが実態でした。
直後の休日、コープこうべの店舗復旧支援に行き、現地のようすに直に触れることになりました。梅田で集合し、阪急で西宮北口まで行き、そこからは徒歩で現場に向かったのです。
黙々と歩く人、ガスの匂い、救急車や消防車のサイレン、倒壊した家屋、忘れられない光景です。店舗復旧作業としてはシャンプーなどの売り場を担当しました。水が使えないなかで、布や紙で棚や床にこぼれたものを拭いとっていく作業でしたが、なかなか苦労な作業でした。
あれから30年なのかと思いながら、メディアの「阪神淡路大震災」の報道を見聞きしました。
「阪神淡路大震災」から学ぶべき教訓をあらためて記しておきます。
●地震の発生は防ぐことができなくても、被害を小さくすることはできる。そのために「防災」とあわせて「減災」の取組みをすすめる必要がある。
●地震発生時に助かった生命が、その後、避難所生活の疲労や環境変化のストレスでなくなるという「災害関連死」ということが話題になった。このようなことをなくすようにしたい。そのために避難所の改善、医療体制の整備を行う必要がある。
●「阪神淡路大震災」では住宅被害が目立った。地震発生の時間の関係で自宅の家屋倒壊や家具転倒にともない亡くなった方が少なくなかった。この経験から、住宅再建支援、住宅の耐震性向上助成などの公的支援システムが強調された。この取り組みは今でも重要である。
●「阪神淡路大震災」では、道路、橋、水道、電気、ガスなどのライフラインが打撃を受けたことをふまえ、その点検・整備につとめてもらいたい。これらのライフラインの多くは戦後、高度成長期に整備されたままでいるものが少なくない。
●震災、自然災害によって、大量の「災害廃棄物」が発生する。その収集・適正処理のための対策が必要である。市町村の枠を超えた広域処理の体制づくりをすすめてもらいたい。「阪神淡路大震災」時には「アスベスト」対策が強調されたが、環境汚染対策についても注意が求められる。
●自然災害対応に関わり「自助・共助・公助」ということがいわれるが、まず自分の身の安全を守る「自助」が一番だとして、「公助」までには時間がかかる、よって「共助」の仕組みづくりが大事だということも強調された。自然災害から身の安全を守るためにどのような地域レベルでの助け合いが必要なのかを考えていくことが、「減災」の取り組みに通じるのではないか。
●これらのことを考えるにしても、原発が重大リスクになることをあらためて認識する必要がある。「阪神淡路大震災」では原発事故につながることがなかったが、「東日本大震災」の経験をふまえるならば、大地震と原発事故が組み合わさった「複合災害」を考えざるをえない。にもかかわらず、いま、政府が原発への回帰、老朽原発の再稼働もふくめた原発の活用に向かおうとしていることはみとめがたいことである。
日本列島は、いつ、どこで地震が発生してもおかしくない位置にあります。南海トラフ地震の発生の確率も高いとされています。
京都市域の場合、津波がくることはないでしょうが、「火の海」になるといわれてきました。いざというとき、古い木造家屋が多く、火災が広がるリスクがとても大きいのです。消防車が入れない狭い路地も少なくありません。
「阪神淡路大震災」から30年を機に、あらためて地域からの「防災・減災」の取組みが強化されることを願いたいものです。